Spectators Evergreen Library vol.19<br> BEHIND THE ISSUE<br> スペクテイター「パンクマガジン『Jam』の神話」特集号<br> ヘタウマ・イラストレーションにまつわる対談

Spectators Evergreen Library vol.19
BEHIND THE ISSUE
スペクテイター「パンクマガジン『Jam』の神話」特集号
ヘタウマ・イラストレーションにまつわる対談

SHIPS MAG読者のみなさん、こんにちは。
スペクテイター編集部の青野です。
5月末に発売予定の次号では、自販機雑誌『Jam』を特集します。
1979年に創刊され、わずか一年足らずの短命だったにもかかわらず伝説のサブカル誌と呼ばれ、ふたたび注目を集めている理由やその中身などについては次回に詳しく語らせていただくとして、今回は『Jam』に漫画を寄稿していた2人の漫画家にまつわる話をお届けします。

「ヘタウマ」の元祖・蛭子能収と渡辺和博を紹介する

1979年、あなたはもう生まれていたでしょうか? 
その年、どこで何をしていたか覚えていますか? 
70年代が終わり80年代が始まるこの年は、若者文化に時代を画するようなブームや出来事が起きた年です。
どんなことがあったか、代表的なものを時系列で挙げてみます。

・スペース・インベーダー
・ウォークマン
・YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)海外ツアー

この年、テクノポップやTVゲームが大流行。それまで聞きおぼえのない電子音がピコピコと街に響きわたるようになった初の時代として記憶されているのですが、これらは当時の若者を魅了し、「インターネット登場」に匹敵するほどの衝撃を与えます。
新感覚を携えた若者たちは80年代に入って「新人類」と呼ばれてアカデミズムやアートの世界に頭角を現わし、いまにつながる文化を作りました。

そこで、今回は「1979年」という年が時代のなかでいかに重要な年であったかみなさんに伝えたいと思い、当時の興味ぶかい事例を紹介したいと思います。

まずこの年のエポックメイキングな出来事として思い起こされることに「ヘタウマ・ムーヴメント」があります。
「ヘタウマ」とは何か? 
イラストレーションと漫画の世界でおもに使われた言葉で、「一見ヘタクソだったり稚拙に映るけれど、実はビックリするくらいの技巧が背後にある」アート作品に対し生まれた名称で、雑誌や広告の世界で「ヘタウマ」が大流行しました。

糸井重里氏と組んで『ペンギンごはん』の作画を担当なさった湯村輝彦氏はヘタウマの横綱級アーティストとして知られる作家です。

みうらじゅん、根本敬、久住昌之、リリー・フランキー……「ヘタウマ・ムーヴメント」から誕生した作家は実はたくさんいるのですが、今回みなさんに「ヘタウマの代表選手」として知ってほしい作家は渡辺和博氏と蛭子能収氏のおふたかたです。
蛭子氏はTVタレント、映画出演などでも有名なので、説明不要でしょう。
渡辺氏は『アンアン』『週刊朝日』などでおもにイラストレーションで活躍。時代観察にスルドい眼をもつ作家として知られ、80年代、「マル金・マルビ」という流行語を生んだベストセラー『金魂巻』の著者でもあります。寂しいことに2007年ご病気で亡くなられてしまいましたが、ヘタウマの歴史を語るには”ナベゾ”(=渡辺和博の通名。師匠筋の故・赤瀬川原平氏が命名なさったそう)を挙げないことには話が始まりません。

そこでおふたりをよく知る編集者・手塚能理子さんにご登場いただき、ヘタウマ・ムーヴメントはどこから生まれてきたかについて質問させていただきました。

手塚さんは青林工藝舎の編集兼発行人で、同社刊行の雑誌『アックス』編集長をつとめておられます。以前は青林堂長井勝一社長の下で『ガロ』の編集経験をお持ちの大ベテラン。つぎつぎと人気漫画家を育成していくので、手塚さんに足を向けて寝られない漫画家がたくさんいるのではないでしょうか。
(余談ですが、手塚さんのつくる料理というのが大変手早くできる優れもので、時折レシピを青林工藝舎のブログに載せておられます)

じつは手塚さんは昨年秋頃から体調を崩して入院されていたのですが、3月からぶじに職場復帰され、このインタビューもこころよくおひきうけいただけました。
「今年は青林工藝舎の創立20周年を迎えるので、休ませてもらったぶん、モリモリ働きたいですね」と手塚さん。『アックス』の活動に期待大!です。

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『アックス』「追悼特集 渡辺和博」(青林工藝舎)

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『アックス』「特集 蛭子能収」(青林工藝舎)

*インタビュー中に登場する南伸坊氏、渡辺和博氏は、ともに手塚さんが『ガロ』編集部にいた時代の先輩編集者でした。長井勝一社長が創刊した『ガロ』は、南伸坊氏が7年間編集長をやり、そのあとを渡辺和博氏がひきつぎました。

――若き日の糸井重里さんと湯村輝彦さんが70年代の終わりに『ガロ』でコンビを組まれて、「ペンギンごはん」シリーズの元になった漫画を巻頭二色とかで連載されてました。自分は当時「この漫画凄いなー!!」とか思って見ている高校生だったんですけど、そのとき手塚さんは青林堂の編集者をやってらしたんですよね。

1979年に入社したので、もう「ペンギンごはん」は始まってましたね。『ガロ』には前からすごく憧れていて、運良く入社できたんですね。そのころはまだ田舎から出てきてそんなにまだ時間が経っていなかったんで、「東京って本当にすごい街だな」って感じでした。音楽が好きでコンサートを観に行ったりしていたんですけれど、当時、演劇とかも凄かったじゃないですか。

――小劇場のムーヴメントなどですね。

そう。演劇関係者たちがすごく精力的に活動してて。前衛演劇が多くて、観に行っても舞台で何やってるのか意味がわからない。なんだかわからないけれど、でもすごいことやってるんですよ(笑)。演劇では当時「白虎社」とか、白く塗った人たちが出てきて、裸で踊ったりして。

――田中泯の裸で踊るパフォーマンスとかありました。

ちょっと怖いじゃないですか。田舎者にとっては衝撃的で。活字系でいうと(自販機本の)『Jam』はかなりの衝撃でしたね。東京にはこんな雑誌があるんだって。

――尖っている、という意味ですか。

尖っていてサブカル色が強くて。裸とかエロも載ってたけれど、なんか凄かった。それにあの時代は見るもの何でも新しいものばかりだったから楽しかったですね。自分にとって『Jam』とか『HEAVEN』は「東京」「最先端」というイメージでした。

――手塚さんのことも『Jam』の誌面に出てくるんですよね。渡辺和博さんが「今月面白かったこと」というエッセイを連載していたんですけど、そこで街で見かけた変人の話を書いてて。「青林堂勤務の手塚能理子さんは以前レコード屋にアルバイトしていて、ある日、立派な身なりの紳士がスタスタと近寄ってきて、「ホルストの『惑星』を試聴させてほしい」と言って、レコードをかけると手塚さんの前で指揮棒で30分くらい指揮をして、最後に「ご静聴ありがとうございました」と挨拶して静かに帰った…みたいな話でした。

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渡辺和博氏。手塚さんのご自宅で撮影。
1981年(青林工藝舎・提供)

そうそう(笑)。当時の青林堂って、よくおしゃべりしている会社で、しょっちゅうそういう話してたんですね。町で出会った変わった人の話とか。渡辺さんは、長井(勝一)さんの話を聞きだすのがメチャクチャうまくて。長井さんが満州大陸に行った時の話とかを、みんなでゲラゲラ笑って聞いて。なんかいつもそんな話して笑ってた記憶がありますよ。だから、そういう流れで、わたしがレコード屋でバイトをしていたとき、そういう人がいたって話したら、いつのまにか雑誌のコラムに書かれたり。ふふふ。

――文章と漫画を読み返してみると、渡辺和博さんはつねに、人が見落としてしまうようなことをおもしろく表現できる人ですよね。

そうなんですよねえ。それがすごく魅力ですよね。

――和博さんは当時代官山のマンションに住んでいて、冬場に火事が多かったんですって。で、その火事を部屋の中から双眼鏡で観ていたそうです(笑)。「家の中は暖かくていいなあ」とか言って。その話は、火事の翌日、奥さんと現場を見に行くところで終わるんです。…こうやってしゃべると、なんか身も蓋も無い話ですけど、これが和博さんの特異な幼児文体で書かれると響くんですね。

観察する視点が変わっていて。それに新しいものが異常に好きで、漫画にも意味もなく新製品を描いてたりしてましたね。あの頃evian(=ミネラルウォーター)というのが出てきて、「あんた、これ知ってる?」って出してきて。「なんですか、これ?」「水だよ、水」「水って売ってるんですか」「なんかね、『BRUTUS』とか読んでるヤツはこういうの飲んでるんだよ」って、すごい馬鹿にしたような口調で面白そうに言うんですね。あと〈ハリウッド・ランチ・マーケット〉にも連れて行ってくれたんですね。「あんたみたいな田舎者はちゃんと観に行ったほうがいいよ」って。

――事務所が近かったんじゃないですか。

いえ。そのときは、駒場東大前でした。あと〈オレンジハウス〉という雑貨屋さん。その頃は確か青山にあって、そこにも仕事が終わった土曜日に、「あんた、ついてくればあ?」って。逆らうと怖いからついて行ったら、「ここ、今すごいんだよ」「へえ…」って。

――西海岸の家具とか置いてるショップでしたっけ。

白い食器とか、オシャレなガラスコップとか、そんなのがありましたね。よく覚えていないけれど。

――漫画にカタカナの固有名詞が異常に出てきますね。〈ボートハウス〉とか〈ブルックス・ブラザーズ〉。大好きですよね、往年の『POPEYE』少年の好きな「すぐれもの」みたいなのが。

すごく好きなんですよね。それでわざわざ買ったものを見せに来たりする(笑)。青林堂を退社してからもバイクでやって来て、ライダースジャケットみたいなのを脱いだら紺色のセーターを着ていて。「あんた、これ知ってる?」「えっ、わかんないですけど」「ペットボトルを再利用してつくったセーターなんだよ!」って。

――「新しもの」が好きだったんですね。

そう。だから新聞をよく見ていましたね。新製品がいっぱい出てるって言って、そういうのを見て「長井さん、今ね、こういうの出てるんだよ」って言っていました。長井さんもそういうのが好きだから、二人でよく喋ってましたね。

――和博さんは『ガロ』の編集者をやりながら、自分でも漫画作品を同じ雑誌にかいていましたよね。

最初、渡辺さんが生徒で在籍していた美学校で「私の初体験」という作文を書いたら、それが先生の赤瀬川原平さんに褒められて。当時『ガロ』の編集長だった南伸坊さんが、「ナベゾ、これ漫画にしたら」ってすすめて、それで初めて漫画をかいたと聞きました(渡辺和博氏は1975年に「私の初体験」で入選)。

――編集者をやりながら、仕事が終わったあとに漫画をかいて?

ええ。よく編集部に居残ってました。南さんも自分の仕事(=社外のアルバイト原稿かき。青林堂は給料が安くてみんな編集のかたわらバイトしていたとか)が忙しかったので、2人して残って仕事していましたね。だから、人の原稿をとりに行ってもまだ自分の原稿が終わっていないみたいな状態が結構あって、最後のころはそういうのが多かったんじゃないかな。

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『HEAVEN』通巻7号(1981/01)群雄社出版

――青林堂には和博さん、4年ぐらい在社されて、その後フリーのイラストレーターに。

そうですね。もう辞めるときは結構仕事をたくさん抱えていたので忙しかったみたいですね。とにかく新しいものに目をつけるのが早いし、それをどういう人が使っているかという分析のしかたも面白かったし。商品自体に飛びつくのではなくて、それがどういう人たちにどういう目的で使われているのかって、人間観察を含めたところで分析して。それを文章とイラストに起こすんですけど、それがすごく面白い!

――クールですよね。いつも距離感があって。最近、和博さんの遺作となった『キン・コン・ガン!』(文春文庫plus)を読んでいるんですけれど、やっぱり面白いですね。癌の闘病記なんですけど、すごい冷静というか客観的なんですよ。自分の身体のことなんですけど。『つげ義春日記』という本などを読んでいると、つげ義春さんなどもそうだなとしみじみ思うんですけど、自分のことを他人の目線で見たり感じたり出来るのが作家なんだと思いましたね。

本当、そうでしたね。癌で入院されてたときも、もちろんつらい状態だったと思うんですが、あまりそういう素振りは見せないで、病状や治療方法もまるで他人事のように話すんですね。でもあとで考えると、それもすごいことだなって思いました。慶応病院でわりと会社が近かったんで、なにかというと電話で呼び出されて。ふふ。「イラストをパソコンで描いてデータで送るからプリントアウトして持ってこい」って青林工藝舎にデータを送ってきて。あと(担当医の)先生の似顔絵をかいて、「絵葉書のサイズでプリントして持ってきて、各何枚で」「わかりました」って、それで慶応病院まで自転車で届けて。そんなふうによく病院に呼び出されて、おじゃますると話し込んだりしてたし、病室でも絵をかいてたから、つい病状はそんな大変じゃないのかなって思わされちゃう。
でもやっぱりつらかったんでしょうね。入校で猛烈に忙しかった日に、渡辺さんから電話かかってきて、「お昼に食パンが出たんだけど、それがマズイんだよ」って。「じゃ、外でおいしいパン買っていきましょうか」「いや、モッタイないから、(病院の)廊下にトースターが出ているんで、アンタ、パン焼きに来て」「えーっ!!」って。その時相当からだがつらかったと思うんですね、廊下に出てパンを焼くのもままならないくらいにね。でもそんなことはおくびにも出さず、当然のように言うので、「クソ忙しいのに、なんでパンを焼きに行かなきゃ行けないの?」って思いながら自転車漕いで行って。でも顔を見たらつらそうなのがすぐにわかったので「はい、パン焼きました」ってお渡したら、「帰っていいよ」って。多分つらいとこ見せたくなかったんでしょうね。

――ぶっきらぼうなんですか、言い方が。

ぶっきらぼうですね(笑)。

――いちど雑誌で和博さんに仕事をお願いしたことがあるんですよ。お会いしたらモノすごいぶっきらぼうで黙っちゃって、間が持たないという感じでした。だから男性には無愛想なかんじなのかとか思ったんですけど?

ふふふ。なんかね、突然電話がかかってきて、「はい」ってとると、「もうセックスしたの?」とかって突然言うの。どう答えていいかわからないけど、でも渡辺さんにウケるような答えを言わなきゃいけないって思って必死で戸惑っていると、「どうでもいいけど」ってぶっきらぼうに言われて、「あっ、しまったー!」ってなる(笑)。 なんでこっちがドキドキしなきゃいけないんだろうって。みうらじゅんさんも渡辺さんから突然電話がかかってきて、「いま、お前ん家に寿司を百人前頼んだからな」って。みうらさんは「冗談だか本気だかわからなくて、どうしていいかわからなかった」って。ふふふ。そういうふうに後輩に電話をして楽しんでいたみたいだけど。
でも、基本的にはやさしかったですよ。「広島焼き」ってお好み焼きあるじゃないですか。渡辺さんは広島出身だから、お好み焼きををひっくり返すのがものすごく上手いらしくて「見に来ない?」ってご自宅に招待してくれてお好み焼きをご馳走してくれるんですよ。

――「お好み焼きをひっくり返すから見に来ない?」って、すごい誘い方ですね(笑)。でも手塚さんが編集長の『アックス』では和博さん、体調が悪くなってしまってから仕事はしていなかったみたいですね。高杉弾さんの連載エッセイのカットとか、それくらいですか?

ええ。最初、C型肝炎になって。「C型肝炎になったら肝臓がんになるんだよってお医者さんに言われたら、そのとおりになった」って。C型肝炎から数えると、闘病期間は結構長かったと思いますよ。

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渡辺和博『お父さんのネジ』(青林工藝舎)

――病を得て亡くなられた年に、手塚さんが工藝舎から分厚い本を出したんですね。『お父さんのネジ』という。

亡くなってから出したんです。2007年の年末ギリギリくらいに。

――これ、大好きな本です。

ありがとうございます。わたしも『ガロ』の読者だった頃は渡辺さんの作品がすごく好きで。青林堂に入ったとき、渡辺さんも会社にいるんだなと思ったら、ヘルメットかぶったフルフェイスのまま机に座っているから、印刷屋の人かなって思ったりしてね。わたしがつとめに入った初日に、そういうことをわざとやったりって、いたずらっぽいことをよくやっていましたよ。ふふふ。本当に変な人だった。

――今回、和博さんの奥様に、旧作を再掲載させていただきたくて電話で許可をいただいたんですけど。奥様が言ってましたね。「いまの時代だったら、絶対に和博は”炎上”してますよね」って。

ははは。そうかも知れない。

――最初に『ガロ』で和博さんの漫画を読んだのは高校生の頃でしたけど、こんな幼稚な絵が雑誌に載るのかと目を疑いましたけどね。内容もこんなひどいことかいていいのかとか思ったりして。でも、そのうちだんだん和博さんの世界観に慣れて馴染んできましたけど(笑)。で、好きになって。

ははは。でも面白かったですね、渡辺さんの漫画。面白いのにどこか哀愁があってホロッてしたりね。

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蛭子能収『復活版 地獄に堕ちた教師ども』(青林工藝舎)

――もうひとつ、蛭子能収さんのことを聞きたいのですが。『地獄に堕ちた教師ども』という作品集を最近、カバーをつくり変えて工藝舎から再刊なされたじゃないですか。このなかに『Jam』に発表した標題作が入ってたりするんですけど。蛭子さんのほうが和博さんよりちょっとデビューが古いんですよね(蛭子能収氏は1973年「パチンコ」で入選)。

そうですね。蛭子さんの作品も、読者だった頃から好きだったんですよね。蛭子さんって作品と本人にものすごいギャップがあるというか。ま、本当は最終的には無いんだけど、作品と作家本人の印象が全然ちがうじゃないですか。まだお目にかかる以前は、青白い顔した怖い人なのかと思っていたんですけど、会うと全然ちがってて。
一番最初にお会いしたのは、蛭子さんが『ガロ』の編集部に「長崎に帰ります」って挨拶に来たんですよ。「漫画の仕事がないんで、故郷に帰ろうと思ってるんで。お世話になりました」ってね。で、長井さんも蛭子さんの漫画は面白いと思っていたみたいで。「蛭子さん、ちょっと待ってよ。単行本つくってあげるから、それが売れなかったら帰ればいいんじゃない。売れたら東京に残ればいいんじゃないか」って長井さんが提案して、それで、初の単行本『地獄に堕ちた教師ども』をつくったんですね。そしたらこの本が結構売れたんです。それで立て続けに蛭子さんの単行本を出したんです。もともと業界にファンが多かったんですね。編集者がみんな「すごい、すごい」って言ってて。「どういう人なんですか? この名前なんて読むんですか?」って。

――珍しい名前ですよね。「ヒルコ・ノーシュウ」と呼んでいました。

どういう人なんだってのもよく聞かれたんだけど、それまではわたしたちも会ったことがなかったから、全然わからなかったんですよ。それで、青林堂に訪ねてきたときに、全然漫画とイメージが違う人で、「誰、この人?」みたいなかんじで。
長井さんと「長崎に帰る帰らない」とか「単行本を作ろう」って大事な話をしているときも、「(口調を真似て)あ、そうですか、はい。はい。わかりました~」とか言ってたと思ったら、途中から違う方角を見始めてね、「頑張りなさいよ、単行本出してあげるから」みたいな話をしているのに、全然あさってのほうを見てるので、長井さんが「蛭子さん、ドコ見てるの?」って聞いたら、「二階にいる女の人のパンツが、ここから…」って。

――(笑)。青林堂の建屋の2階の窓から、パンツが見えたんですか?

そう。真向かいのビル。机が青林堂の方に向かってあったんですね。そこの机に向かってOL社員が座ってたんだけど、なんかそこから見えていたみたい。ふふふ。なんかそーとー変な人だなと。それからよく編集部にも来るようになって他の作家さんとも会う機会が出来てね。そしたら、根本敬さんとか自分よりずっと若い作家のグループに入りだして。それで、当時原宿にあったみうらじゅんさんの事務所にしょっちゅう集まっていたんですね。溜まり場みたいになっていて、そこに蛭子さんもよく来てすっかり後輩たちとツルむようになって。蛭子さんは先輩の人たちとつきあうのが苦手だったんで、気を遣わずにすむ自分よりも下の人とばかりつきあってましたね(笑)。

――長井さんが雑誌に喋ってた話で忘れられないエピソードがあるんですけど。ある日、蛭子さんが口から血をダラダラ流しながら青林堂にやってきて、どうしたんだって聞いたら、「競艇を観ていて興奮して、奥歯で下唇を噛み締めてた」という話があったんですけど。あれ本当ですか?

ええ、本当です。蛭子さんの漫画じゃないけど、血にまつわる話はまだあって。蛭子さんは当時西武池袋線の所沢に住んでいて、平口(広美/漫画家)さんと同じ沿線だったんですね。それで平口さんのことをすごく慕っていて、平口さんの言うことは絶対に聞くんですよ。

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蛭子能収氏。
撮影:平口広美(青林工藝舎・提供)

――どうしてですか?

平口さん、すごい正義感が強くて、ふざけたことを言うと怒るから。殴られると痛いからって、平口さんの言うことは絶対聞いてたの。
それで平口さんの単行本『コスモスの丘』をつくるときに、巻末に蛭子さんとの対談を入れようということになって。それもご夫婦で仲が良いから「夫婦対談」ということで奥さんにも来てもらおうと。そしたら蛭子さんが突然「所沢に航空公園というところがあるから、あそこでやりましょう」ってことになって。それでみんなでお弁当を買って行ったら、たまたま臨時で閉園していたんですね。そしたら蛭子さんが、「じゃあ、わたし、いいところ知っていますからソッチへ移動しましょう」っていうのでついて行ったら、案内されたのが普通の田んぼのあぜ道で、「えっ、ここで対談やるの!?」ってなったんだけどもうしょうがなくて、田んぼの道でご飯を食べながらやっていたら、蛭子さんが「なんか、血の味がする!」って言いだしてね。蛭子さんはナポリタンが好きなので、ナポリタンのお弁当を買ってズルズル食べていたら、蛭子さんの口から血が出てきて。

――なにが起こったんですか?

「さっき、ココに来る前に歯医者さんに行って、親知らず抜いてきたんですよ」って。ナポリタンのソースと血が口の中で混ざって、この世のものとは思えない、それはすごい光景でしたよ(笑)。

――漫画家で草野球とかやってたみたいですね。

蛭子さんと平口さんのチームに分かれてね。その頃、蛭子さんはいろんなエロ雑誌でかいていたから、掲載誌が送られて来るんですが、蛭子さんは掲載誌に一切興味がないので封も開けないんですよ。それを持ってきてベースにしてたんですね。「本当にひどいやつだなあ」って(笑)。もう当時から全開でしたね、「蛭子力(えびすりょく)」というか。

――いまでも蛭子さん、『アックス』に連載されているじゃないですか。ふた月にいっぺん工藝舎に来るんですか。

いまはファクスでやりとりしたり郵送で送ってきたりとか。普段はテレビタレントの仕事が忙しくてね。でもたま~に会社に来るとここで寝てたりしますけど。

――初めて会った時から、変わってないんですね。

全然、変わっていないですね。どんどん売れていって年収がどんどん上がっていくけど、人柄は変わらないというか。いちおう自慢するんですよ。「わたしは年収これぐらいになりましたよ」とかって。でも、この最初の単行本をつくっている頃は楽しかったですね。湯村輝彦さんなんかも蛭子さんをすごい絶賛していたから。「エビスの単行本をやるなら、絶対俺に装幀やらせてくれ」って、みなで楽しんで、というか、なんとか蛭子さんの漫画を世に出したいという情熱でやってました。

――再刊したこの本は、湯村さんのご子息(マスクベビーさん)の装丁だそうですね。

はい、そうです。

――和博さん、蛭子さん、おふたりとも『ガロ』の出身者ですよね。

そうですね。お二人とも類を見ない作品を描く作家でしたから。こんな漫画、見たことなかったですもんね。最初読んだときビックリでした。なんだこの漫画はって。

――蛭子さんの新刊(『復活版 地獄に堕ちた教師ども』)は売れてるんですか。

そこそこ売れています(笑)。若い世代の漫画家さんで読んだことないって人も結構いるし。読んだことない人でも一度はまると夢中になって読んでるみたいです。

――蛭子さんは人間くさいエピソードの宝庫なんですね。

蛭子さんとのつきあい、長いですけどね、(最初の)奥さんが亡くなったときは本当にかわいそうだったなあ。お葬式で一生分泣いたんじゃないかな。人目をはばかることなく、あんなに泣くことなんてないだろと思うぐらいにワンワン泣いていたから。仲よかったですからね。

――和博さんも生前、奥さんとはとても仲が良かったそうですね。「内助の功」があったんじゃないですか。

すごいサバサバした方で。奥さんも美学校出身なので、渡辺さんがやっていたことを奥さんは理解していたと思うんですよね。

――奥様が、病床の和博さんに、臓器を提供されたと…。

それで南伸坊さんとか末井昭さんたちがしみじみ話してましたよ。「おれたちが病気になったら、奥さんから肝臓もらえるかなあ」って。

――いま『アックス』にかいてる関根美有さんとか堀道広さんとか、いつも「ヘタウマ」ぽいなあと思いますね。だから蛭子さんも和博さんも、37年前の漫画を読んでも違和感というか、古いかんじは全然しなくて凄いなと思うんですけどね。

そうですね。当時は「ヘタウマ」って嫌いな人は、全然受け入れられなかったから。人によっては、「あんなマンガ『ガロ』に載せて」って言われて、すごく怒られたりしたし。ヘタウマ関係は怒られましたね。「ペンギンごはん」とか、呑み屋で全然知らない人に「なんだ、あのマンガは!」ってからまれたりしてね。

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『HEAVEN』通巻5号(1980/11)群雄社出版

――正直、自分も当時ちょっと「ヘタウマ」に抵抗ありましたよね。それまで『ガロ』で村野守美さんとか永島慎二さんとか「人生派」の漫画を読んで熱中していたから。でもそのうちだんだん「ヘタウマ」に洗脳されました(笑)。

私はリアルタイムで「ヘタウマ」を読んでたから、湯村さんも和博さんもすごく好きで、ヘタウマが出て来たとき、これはすごい革命だ!って思ったし、怒られたりからまれたりするとと面倒だから「すいません」ってとりあえず言ってましたけど、心の中では「ちっ!」と思ってました。

――(笑)。ヘタウマということで言うと、「ペンギンごはん」あたりが走りなんですかね。

そうですね。

――湯村輝彦さん、糸井重里さんの存在が大きいんですね。

その後「ペンギンごはん」に影響を受けたというか、作品に勇気づけられて漫画家になった人たちがずいぶん出てきましたから。

――久住昌之さんもそんなことを発言されてましたね。

みうらじゅんさんもそうだし、根本敬さんも花くまゆうさくさんもそうだし。

――漫画で何やってもいいんだ、と。

そうそう。だから『ガロ』に載せてもらえるかも知れないってスグに思ったって言ってました。

――湯村さん・糸井さんは当時、それぞれイラストレーションと広告の分野では大変な人たちでしたけど、漫画作家としてはシロートに近いわけで、やっぱりお2人の起用は、『ガロ』に長井さんがいらして、ヘタウマを載せたという意味なんですか。

というか、まあ南さんの力が大きかったと思います。南さんがいいと思って強引に載せちゃったんだと思いますよ。

――南伸坊さんが当時『ガロ』の実質的な編集長だったんですよね。「面白主義」の路線を敷いて。次の編集長が和博さんで。

そうですね。基本的に長井さんはあまり文句を言わなかったですから、南さんも渡辺さんも自由にやってたと思います。誰かに「長井さん、だめだよ、『ガロ』にあんなマンガを載せちゃあ」って言われると「…って言われちゃってさあ」と。ふふふ。わたしが荒木経惟さんの担当をしていたときも、「肉屋の○○ちゃんが、あんな裸の写真のせて、って怒っているんだよなあ」って、とりあえず外の情報は流してくれてましたけど(笑)。

――でも、伸坊さんがやっていた頃の『ガロ』って相当面白いですよ。これが普通に漫画として読めて面白くなる時代がやっと来たんだな、という気がします。『ガロ』は何歩も時代に先行してました。

「チューサン階級の友」(主筆:嵐山光三郎氏)とか連載してたじゃないですか。あれも面白かったし。やっぱり南さんは天才的でしたね。いま話を聞いても、やっぱりすごいなあこの人はって。もうね、ずっと南さんに付いていていこうって。ふふふ。

――南さんはセンスがある方ですよね。イラストでもインタビューでも、なにをやっても。

だから、南さんと渡辺さんのコンビってものすごく面白かったんですよ。編集部にいて、あの2人の話を聞いているだけですごい幸せだった。ふつう人が面白がらないことも別な視点から見たらこんなに面白い、ってことのお手本のような話でした。南さんはよく笑う人だから、渡辺さんの話を面白がってゲラゲラ笑いながら聞いていて。すごく楽しいんですよ。

――和博さんは、漫画の持ち込みとか、青林堂に変わった人が来社したとき、机のひきだしの中に「パンパン」とか「中卒」とか「貧乏人」とか書いてあって、それ指差して笑ってたとか。ひどい人(笑)。

そうでしたね(笑)。赤いマジックで書いてあるんですよ。来た人可哀想ですよね。ふふふ。私は最初のころは営業の仕事や本の整理、出荷をやっていたので、手を動かしながらお2人と長井さんのおしゃべりを聞いてました…。だから、神保町の材木屋の二階に青林堂のあった時代は、楽しい思い出しかないんです。面白くて良い先輩の下で働けたという印象しかないので、楽しくて仕方がなかったですね。それにいろんなところにもよく誘ってくれたんですね。渡辺さんにしろ南さんにしろ。それでいろんな人と知り合いになれた。白夜書房にも何度も連れていってもらって、そのうち白夜書房から仕事をいただいたりして。それと当時青林堂にはファクスがなかったのでファクスを借りにも行きました。『ガロ』で上杉清文さんの原稿をいただいてたんですけど、静岡県にお住まいの上杉さんは、原稿が異常に遅かったんですよ。いつも間に合わなくて「電話原稿」だったの。

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『HEAVEN』通巻9号(1981/03)群雄社出版

――電話原稿...?

きょう写植屋さんに出さないと間に合わない、ってなると上杉さんに電話口で原稿を読んでもらって、こっちで書き留めるんですね。でもそれってすごい大変だったので、当時『写真時代』の編集長だった末井(昭)さんに了解を得て白夜書房宛にファクスを送ってもらうことにして、朝早くから白夜書房の編集部に行って、ずっと上杉さんのファクスを待っていたりしてました。『ビックリハウス』主催のパーティーなんかにも渡辺さんに連れていってもらいましたね。むかしは出版界も羽振りがよかったから、パーティーが多かったんです。いろんな展覧会にも連れて行ってもらったんですよ。

――何歳ちがっていたんですか? 和博さんは昭和25年生まれですね。

じゃあ、5つですね。いま思うとずいぶん可愛がっていただいてて、知らない場所にもいっぱい連れて行ってもらったし、いろんなことも教えてもらいましたね、渡辺さんには。

――良い先輩ですね。

本当にありがたいというか。渡辺さんにも南さんにも出会えてホントに幸せだなって。

――『Jam』編集長だった高杉弾さんは、自分たちがつくっている雑誌が自販機のエロ本で、頼める人がいないから2人に漫画を頼んだとかおっしゃってましたね。もちろん蛭子さんも渡辺さんも大好きな作家だったんでしょうけど。

そう。だから高杉さんとたまに呑むと、「ナベゾの漫画、本当に面白かったよねー」って、よく当時の話をしますね。

――和博さんみたいな人は滅多にいないですからね。

他に会ったことないですね。天才、とひとことではかたづけられない、特殊な目配りの力がある人で、それを120%作品に反映できる人でもありました。

――今回、ぼくたちのつくる雑誌で自販機本の雑誌『Jam』について特集するんですけど。

高杉さんが青林堂に初めていらっしゃった日のこと、よく覚えてますよ。渡辺さんを訪ねてきたんですよね。渡辺さんって、すごく人のナリを見る人で、高杉さんが帰った途端に、「いま来たヤツ、すごい変だ、すごい変だ」って嬉しそうにはしゃいでるんですよ。「どうしたんですか?」って聞いたら、そのとき高杉さんは革靴を履いてたんだけど、「あいつ、革靴なのに紐をつけてないよ!」ってニコニコしながらいうんですね。そういう出来事を、また南さんに報告するんです。「高杉って人、すっごく変だよ」って。「すごい変だよ」っていうのは渡辺さんの中ではホメ言葉なので、一発で気に入ったんでしょうね。

――『Jam』に和博さんと蛭子さんが交互に執筆しているのを見ると、『ガロ』にはすごく縁があるというか。

そうですね。その後高杉さんや山崎春美さんとの付き合いも長く続くわけだし、お互い雑誌として気になる存在だったことは間違いないですし(笑)。でも蛭子さんが高杉さんに原稿を渡してから原稿料が入金されるまで、「本当にお金もらえるんですか?」って何回も聞いてきたって言ってました。

――蛭子さんは、高杉弾さんと山崎春美さんの2人組が「恩人」だって言っているみたいですね。

ええ。「最初に私の漫画にお金を払ってくれた人なんですよ」って、いまだに言ってます。ふふふ。

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スペクテイター39号

2017年5月31日
定価=1000円(税別)
発行=有限会社エディトリアル・デパートメント
http://www.spectatorweb.com/

◉特集 パンクマガジン『Jam』の神話

『Jam』は1979年3月から約1年に渡って毎月刊行されていた、自動販売機で買うことしかできなかったパンクな雑誌です。ポルノ雑誌の様相を呈しつつも、プロレス、神秘主義、フリーミュージックなどアナーキーで濃厚な記事が掲載され、「伝説のサブカル雑誌」として現在も一部のファンから熱狂的に支持されています。この過去に類を見ない過激な雑誌は、なぜ、どのようにして生まれたのか?サブカル雑誌の誕生神話に迫ります。

◎『Jam』~『HEAVEN』誕生物語 漫画/伊藤桂司
◎なぜなに学習塾 自販機本『Jam』ってなあに? 答える人/ばるぼら イラスト/ UJT
◎『Jam』創刊号を完読してみる 文/ばるぼら
◎『Jam』面白記事よりぬき 構成/編集部
◎再録『Jam』 
◎総目次『X-Magazine』~『Jam』~『HEAVEN』

◉インタビュー:『Jam』はどんな雑誌だったか?

「突き抜けた世界を追求したくて『Jam』を創刊した」八木眞一郎(元・『X-Magazine』『Jam』編集者)
「面白いかどうかが一番大事ですよ。素人なんだから」高杉弾 (元・『X-Magazine』『Jam』『HEAVEN』編集長)
「真之助に「好きなことをしてほしい」と思ってました」村田惠子(同時通訳者)
「『Jam』も『HEAVEN』も「高杉弾の個人誌」だと思います」近藤十四郎(グラフィックデザイナー)
「自動販売機でしか売らない雑誌! なんて面白いんだろう! !」羽良多平吉(書容設計家)

◉寄稿:『Jam』について考えた

自販機本は僕らの学校だった 文/神崎夢現
『Jam』『HEAVEN』編集部の時代 文/金田トメ善裕
出版史における自販機雑誌と『Jam』 文/小田光雄
WHO’S WHO 人命事典 第3回  文/山崎春美

◎連載:北山耕平「雲のごとくリアルに 飛雲編3」(暫定版)

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青野利光| TOSHIMITSU AONO

1967年生まれ。エディトリアル・デパートメント代表。大学卒業後2年間の会社勤務を経て、学生時代から制作に関わっていたカルチャー・マガジン『Bar-f-Out!』の専属スタッフになる。1999年、『スペクテイター』を創刊。2000年、新会社を設立、同誌の編集・発行人となる。2011年から活動の拠点を長野市へ移し、出版編集活動を継続中。